東京高等裁判所 平成8年(ネ)5406号 判決 1999年4月14日
主文
一 本件控訴をいずれも棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
理由
【事実及び理由】
第一 当事者の求める裁判
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人らは各自、控訴人に対し金五〇五万七四〇三円及びこれに対する平成四年八月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二 被控訴人ら
主文第一項と同旨
第二 事案の概要
一 平成四年八月一六日午後九時四〇分ころ、東京都調布市仙川町所在の仙川マーケットの二階建建物で火災が発生し、一階部分をほぼ全焼した(争いない)。
控訴人は同建物一階の一部を賃借して生花店を営んでいた者であるが、出火元は同じ一階の他の部分の貸借人である被控訴人今村の総菜店の店舗内であり同被控訴人の過失により火災が発生したと主張して、被控訴人今村及び同建物の所有者である被控訴人伊藤に対し、共同不法行為等を理由として損害賠償を求めるものである。
争点は、出火場所、出火原因、被控訴人らの過失等である。
二 控訴人の主張
1 本件建物の使用状況
被控訴人伊藤は、本件建物の一階部分を区割りして五名の者に賃貸し、二階部分を美容院を営む者に賃貸していた。一階部分はいわゆる雑居マーケットであり、もともとぶち抜きの床であったものを、各賃借人が必要に応じ間仕切りを設け又は単に陳列棚を置くだけで自己の賃借部分を画定し、それぞれの営業(控訴人が生花店、被控訴人今村が総菜店、遠藤秋男が寝具店、阿部某が八百屋。ほかに茶月という店頭売り寿司店。)を行っていた。特に被控訴人今村と遠藤の各使用部分には間仕切りがなく、通路や隣の店舗との境はカーテンを用い、必要に応じて陳列を変える結果、使用部分が若干移動し、時として通路の位置、幅に多少の変化が生じることもあった。このように、一階部分は建物の外部とは壁によって遮断されていたが、内部は構造的に遮断されておらず、いわゆるケース貸し的性質を有する使用形態であった。
2 出火場所
被控訴人今村は、自己の店舗に設置した諸電気器具に電力を供給するため、同店舗のうち北側の使用部分の西側付近の三口タップから、東北ないし東南に向かい三本の延長コードを天井に這わせて配線し、そのうち休憩室に配線された延長コードに扇風機の器具付きコードを接続していた。本件火災は右扇風機の器具付きコード又は延長コードがショート(短絡)して出火し発生したものであり、出火場所は被控訴人今村の店舗の休憩室付近である。
3 出火原因
本件火災現場からは被控訴人今村の店舗の休憩室内に、ショートによる溶融痕のある配線が落ちているのが発見された。右電線の銅線は縒り線であることから、動力用や電灯用のものではなく、家庭電気器具に付属するコードか、これに接続させる小電力用のコードであることが明かである。溶融痕は三箇所あったが、そのうち二箇所は不完全短絡によるものであり、火災熱によって生ずることはほとんどない。また一箇所の溶融痕には炭化物が混入していないことが確認されたが、それは火災発生前に生じたことを示すものである。これらの事実から、右休憩室内の扇風機の器具付きコード又は延長コードに火災発生前にショートが生じたことが明かである。このショートによって高熱が発生しコード付近の可燃物に引火し、本件火災が発生したものである。
右ショートの原因は、次のいずれかである。
(一) 延長コード又は扇風機の器具付きコードを壁に固定するため用いたステップル(ステープルないしステイプルと表示すべきものと考えられるが、当事者の用語に従い、以下ステップルで統一する。)でコードのビニール被覆が損傷され、ショートを起こした。
(二) 延長コードとコンセントの接続部分に、接触不良やほこりがたまったり湿気を帯びることによって加熱されるというトラッキング現象が生じ、ショートを起こした。
4 過失
被控訴人今村は総菜店を経営するに当たり、火気の使用、漏電防止に注意し火災を発生させないようにする注意義務があるところ、電源に延長コードを接続し更に扇風機の器具付きコードを接続させた上、延長コード又は器具付きコードをステップルを用いて留めていた。右延長コードは本来電気配線を予定していなかった場所に被控訴人今村の独断で設置したものであるから、配線に当たっては万が一にも電気を原因とした事故が発生しないように注意する義務があるのに、被控訴人今村はこれに反して本件火災を発生させたものであり、重大な過失がある。更にステップルを打ち込む際に延長コード又は器具付きコードのいずれかに損傷を与えたことについては、わずかな注意を払えば避けられたものであり、この点においても重大な過失がある。
被控訴人伊藤は、賃貸建物の管理上、火気の使用、漏電防止に注意し火災を発生させないようにする注意義務があるのに、これに反して本件火災を発生させたものであり、重大な過失がある。
5 被控訴人今村の不法行為責任
(一) 民法七〇九条、失火ノ責任ニ関スル法律(以下「失火責任法」という。)
出火原因が前記のいずれであっても、被控訴人今村には失火責任法にいう重大な過失がある。
(二) 民法七〇九条
前記のように、本件建物は何の区画もない建物の一部分を概略で各賃借人の占有部分を定め、各賃借人がその賃借部分で商品を展示販売しているが、各店舗間に堅固な区分施設があるわけではなく、販売場所は流動的であり時として使用部分に変動が生じていた。
失火責任法の失火者に対する責任の軽減は、本来日本の居宅が多く木造建物であって出火による延焼が広範囲に及ぶことによる失火責任の無限大化に配慮したものであり、同法は少なくとも隣家、隣室と呼べる程度に区画された隣接構造物への延焼にのみ適用されるべきであって、本件建物のような構造と占有使用形態の場合には適用はないというべきである。
したがって、被控訴人今村は、前記過失が重過失に当たらなくても、民法七〇九条により不法行為責任を負う。
6 被控訴人伊藤の責任(次の(一)又は(二)を選択的に主張する。)
(一) 不法行為
(1) 被控訴人今村との共同不法行為
被控訴人伊藤には前記のとおり本件火災の発生につき重過失があるので、控訴人に対し被控訴人今村と共同で損害賠償義務を負う。
(2) 民法七一七条
本件出火の直接の原因である電気配線は、工作物である本件建物に固定されたものであり、土地定着物たる建物に物理的に固着されたものと接合されていたものであるから、本件出火場所は民法七一七条所定の工作物というべきである。
本件建物の前記のような占有使用状況下においては、本件建物内の配線については本来被控訴人今村及び被控訴人伊藤が共同の責任で長期使用をしてもショートを発生させないように適正な電線を用いかつ適正な留め具を用いるべきであったのに、きわめて薄いビニール皮膜の電線を用いかつショートの危険の高い留め具による配線を行ったため、現にショートを発生し本件火災に至った。しかも、被控訴人らは常に張り巡らされた危険な配線から出火が生じることのないよう管理する義務があるのにこれさえも怠った。したがって、本件火災は工作物の管理の瑕疵により発生したものである。
民法七一七条は危険責任の思想に基づく被害者保護の要請により規定された条項であるから、その適用が可能な場合には、直接火災であると延焼火災であるとを問わず失火責任法が排除されると解すべきである。したがって、被控訴人伊藤は本件出火につき民法七一七条により賠償責任を負うべきである。
(二) 債務不履行
本件建物の一階部分の使用形態は前記のとおりであって、各賃借人は建物の内部、外部からの危険に対しそれぞれの専有部分につき独自の責任をもって管理し得る状況でなかった。このような使用形態の賃貸借契約においては、賃貸人たる被控訴人伊藤が本件建物全体の管理責任を負うべきであるとの黙示の合意が存在していたというべきである。
そして、被控訴人今村は扇風機を使用するため引き込んだ電線を自己の賃借部分でない部分を使用するという危険な状態で配線していた(なお、被控訴人今村は本件火災の前、平成二年二月にも出火騒ぎを起こしたことがある。)。
賃貸人である被控訴人伊藤は、このような状況の下で貸借人である控訴人らに対し安全に賃貸部分を使用収益させる義務を負っていたというべきところ、被控訴人今村の本件建物に対する危険な使用を見過ごし、また被控訴人今村に対する賃貸部分及び被控訴人伊藤の専有部分についての管理を適切に行わず、その結果本件火災を発生させ控訴人に損害を生ぜしめたものであって、債務不履行に基づく損害賠償義務を負う。
7 損害
(一) 積極損害 三六一万七〇〇〇円
控訴人は本件火災により原判決別紙り災物件表示の物品を焼失した。それぞれの物品の価格は同損害額表示の額である。
(二) 控訴人は本件火災により平成四年八月一七日から平成五年一月一六日まで生花業の営業が不可能となった。右期間に控訴人が得ていたはずの利益は合計一四四万〇四〇三円である。
9 よって、控訴人は被控訴人らに対し損害賠償として各自金五〇五万七四〇三円及びこれに対する平成四年八月一六日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。
三 被控訴人今村の主張
1 出火場所、出火原因についての控訴人の主張は争う。
甲A第二号証、第三号証の推定は合理的根拠のないものである。仮に出火場所が本件建物の東側の部分であったとしても、被控訴人今村の店舗の休憩室に特定されるべきではない。また仮に出火原因が電気のショートに帰せられるとしても、本件建物の天井裏、倉庫内、相馬寝具店内、通路部分等に存在した配線、天井に取り付けられた空調機のすべてにつき可能性がある。
仮に休憩室内の延長コードのコネクターにトラッキング現象が生じたとしても、被控訴人今村は当該延長コードを本件火災発生の約一年前に購入し通常の使用方法で使用していたものであるから、トラッキング現象が発生する要因は全く存在しなかった。
2 被控訴人今村の責任についての控訴人の主張は争う。
被控訴人今村の店舗は八月一四日から一七日までお盆休みのため無人となっていた。被控訴人今村は休みに入る前日、休憩室の扇風機の電源を切り、主たる冷蔵庫以外の冷蔵庫、テレビのコンセントを抜き、ガスの元栓を閉め、裏の出入り口の施錠をする前後三回にわたって、扇風機の電源を含め指差し称呼により電源、火気の安全チェックを行っており、十二分の注意義務を尽くした。
仮に延長コードにトラッキング現象が生じたのだとしても、前記のように約一年前に購入して通常の使用方法で使用していた被控訴人今村には、その発生の予見可能性はなく、かつ発生の危険を回避すべき期待可能性もなかった。
四 被控訴人伊藤の主張
1 出火原因について控訴人の主張は争う。
出火原因が扇風機の器具付きコードにあるのか(仮に延長コードを含むとしても)、それ以外にあるのか、ショートの原因がステップルによるコードの被覆の損傷にあるのか否か、本件証拠資料上は一切不明である。ステップルが火災現場に落ちていたとしても、形状や使用上の位置関係等において屋根裏に使用されていた多数のステップルとの区別が明らかにされていないし、扇風機の器具付きコードや延長コードをステップルで留めていたとの被控訴人今村及び第一審原告遠藤の供述は信用性に乏しい。またショートによる溶融痕が被覆の損傷によるものかほかの原因によるものかも証明されていない。
仮にステップルによるコードの被覆の損傷がショートの原因であるとすれば、その工事をしたときに異常が起こらず長期間経過した後にその箇所で事故が発生したということは、説明として無理である。
トラッキング現象については、コンセントの接続部分が加熱した原因を含め、これが生じたことを示す物的証拠はなく、本件火災の発生原因と断定することはできない。
2 被控訴人伊藤は控訴人主張のような管理上の責任も管理義務も負わない。
(一) 被控訴人伊藤と控訴人ら貸借人との間には、場所的占有の独立性がないケース貸し契約に通常認められるところの賃貸人が賃借人を監督し賃借人がこれに服するという関係がなく、通常の賃貸借と異なるところがない。
(二) 賃貸借契約に付随するものとしても、被控訴人伊藤は管理者として何ら義務を負うものではない。本件建物のシャッターや扉の鍵はすべて控訴人ら賃借人が単独又は共同して所持しており、被控訴人伊藤は所持しておらず、営業時間外に被控訴人伊藤が本件建物内に単独で立ち入ることはできないのである。また通路やトイレ等の清掃は賃借人らが共同でしており、被控訴人が管理人を派遣したり管理費を徴収していた事実もない。特に通路について被控訴人が管理上の責任を負うべきであるとする根拠もない。
したがって、被控訴人伊藤が契約責任として安全に賃貸部分を使用収益させる義務ないし安全配慮義務を負うことはない。
(三) 仮にステップルによるコードの被覆の損傷がショートの原因だとしても、被控訴人今村に重過失があったということはできない。また何らかの理由でコードが絶縁不良を起こしてショートしたとしても、被控訴人今村は具体的にどのようにすればよかったのか又は何をしてはいけなかったのか明かでなく、重過失があったということはできない。
このように被控訴人今村がいかなる注意義務に違反したかを特定することができない以上、被控訴人伊藤についていかなる回避行為をしなければならなかったのか分からないのであり、したがって被控訴人伊藤には注意義務違反がない。
第三 証拠《略》
第四 争点に対する判断
一 出火場所について
《証拠略》によると、本件火災に際し出動した消防署員が建物の東側から火勢が強く中央付近の開口部から火炎が激しく噴出しているのを見分していること、鎮火後の見分により、一階東側の屋根が焼け落ち、建物の東側の方が強く焼損していることや、東側の壁は外側のモルタルが露出していることが判明したこと、平屋の東側の妻面付近から炎が吹き出しているのを目撃した者がいること等の事実が認められ、これらの事実によると出火場所は被控訴人今村方店舗の休憩室付近であると認めるのが相当である。
二 出火原因について
1 出火原因についての二つの見方
本件においては出火原因について二つの見方が示されている。
<1> その一は、今村方の休憩室で使用していた扇風機の器具付きコードのビニール被覆部分がステップルで傷つけられ短絡(ショート)を起こし、出火したとする見方である。
この見方は、火災現場を見分した調布消防署の消防司令補日馬繁雄作成の出火原因判定書及び同人の証言に示されているものであり(なお、調布消防署長作成名義の火災調査書も同じ結論を示している。)、火災現場に溶融痕のある電線及びステップルが発見されたことと、今村方の休憩室で使用していた扇風機が延長コードでコンセントに接続されていた事実とに基づいて推測したものである。
<2> その二は、延長コードとコンセントとの接続部分にほこりや湿気がたまって加熱されるトラッキング現象が生じたとする見方である。
この見方は、野々村真一の意見書及び同人の証言に示されているものであり、現場で発見された溶融痕のある電気配線につき絶縁不良による短絡事故があったとし、絶縁不良は扇風機に付属する器具コードと、三口タップコンセントから取り出されて休憩室内の一口タップコンセントに至る配線コードとの接続部分(コネクター)において接触不良が生じあるいはほこりや湿気がたまった結果加熱されると共に電流が流れて出火するトラッキング現象が生じたというものである。
2 そこで右の二つの見方の当否について検討する。
(一)<1>の見方については、火災現場から溶融痕のある電線が発見されたことから出火原因として短絡(ショート)を考えたことは一応自然な推理であるといえるが、ショートの原因をたまたま同じ現場から発見されたステップルに結びつけたことに多少無理があるといわなければならない。被控訴人今村は、延長コードを所々ステップルで天井に近い壁に留めたことを当初認めていたが、その後、ステップルで留めていたのは北側の店舗の延長コードで、しかも一箇所だけであり、休憩室内の延長コードは棚の上に載せてあった箱等の荷物の裏側に這わせるように引き、落ちないように箱等で押さえてあったもので、ステップルで留めていた事実はないと述べるとともに、以前厨房の改修工事をした際共同配線の状況を業者に見せるため天井裏に案内したとき共同配線を留めるためステップルが使用してあり未使用のステップルが複数天井裏に散乱しているのを見たことがあるとも述べ、更に休憩室の外側の壁には電気配線をステップルで留めてあったがそれは店舗の使用を開始した当初から既に設置してあったものであると述べており、証人新信男の証言中には本件建物内のFケーブルの配線にステップルを使用してあったとする部分があることからすると、被控訴人今村の右供述を一概に排斥することはできない。なお、溶融痕のある電線が扇風機の器具付きコードであるか延長コードであるかもはっきりしない(日馬は器具付きコードとみているが、野々村は延長コードであるとみている。)。そうすると、被控訴人今村方店舗で扇風機の器具付きコード又は延長コードをステップルで留めていたとの事実は、証拠上これを確定することができないというべきである(《証拠略》はこの事実を証するに足りない。)。しかも、被控訴人今村が休憩室で延長コードを接続して扇風機を使用するようになったのは本件火災発生の約一年前のことであるが、仮に使用開始のときステップルでコードを留めその際コードのビニール被覆を損傷したのだとすると、それを原因とするショートは近接した時点で起こっているはずであり、一年後に生ずるということは考えにくいことである(証人野々村真一もこの点を指摘する。)。これらの点に照らすと<1>の見方は必ずしも十分な根拠を有するものとはいえず、これを採用するのは困難であると考えられる。
(二) <2>の見方についてみると、《証拠略》によると、トラッキング現象とは、電圧が加えられた異極導体の間の絶縁物の表面に水分を多く含んだほこりなどの導体が付着して小規模な放電が発生した絶縁物表面に電流が流れる現象をいうこと、火災原因として、コンセントと配線コードとの接続部分(コネクター)において接触不良が生じあるいはほこりや湿気がたまった結果加熱されると共に電流が流れてトラッキング現象が生じ出火することがあることが判明し、最近注目されるようになったこと、被控訴人今村の店舗の付近の火災現場から焼けて芯がむき出しになった電線で三箇所に溶融痕があるものが発見されたこと、溶融痕のうち二箇所は不完全短絡によるものであることから火災熱によって生じたものではなく絶縁不良によって生じたものと判断されることが認められる。そして、出火の場所が前記のように被控訴人今村の店舗の休憩室付近であると認められ、右休憩室においては延長コードに接続して扇風機を使用していたこと、本件火災が発生したのは被控訴人今村方の盆の休みの三日目の夜間無人の時間で、放火、たばこ等のほかの原因は考えられないこと等に照らすと、<2>のようにトラッキング現象によるものとする見方は、決定的なものが少なく(例えばコネクターのコンセントが、プラスチック部分に焼失してしまうとしても、金属部分は残っていてよいはずのものが発見されていないことなど)推測に偏っているとはいうものの、可能性としては最もあり得るところを示しているということができる。
三 被控訴人らの責任
そこで、<2>の見方によった場合の被控訴人らの責任について判断する。
1 被控訴人今村の責任
(一) 過失について
《証拠略》によると、トラッキング現象といわれるものは、専門家の間では既に大正年間から指摘されていたものであるが、火災発生の原因として注目されるようになったのは比較的最近のことであり、本件火災が発生した平成四年八月当時は必ずしも一般に良く知られた事象であったとはいえないことが認められる。
ところで、個人の家庭、商店、企業等の施設のいずれを問わず、恒常的に特定の場所にほとんど固定して使用する電気器具については、器具付きコードのプラグを壁のコンセントあるいは延長コードのコンセントに接続したままにしておくことは一般に多く見られる現象である。そのような状態が長期間続いた場合に、コネクター(プラグとコンセントの接線部分)に接触不良を生じたりほこりや湿気がたまることがあることは避けられず、特に心がけてその部分の接触を良好に保ち掃除を怠らないようにしない限り、これを防ぐことはできないといってよい。
現在では、そのような状態を放置した場合にトラッキング現象による火災発生の危険があることは、消防署による広報、トラッキング現象を原因とする火災についての新聞、テレビジョン等の報道、あるいは新聞やテレビジョンの提供する啓蒙的情報等を通じ少しずつ知られるようになっており、このように火災発生の危険があることが知られている以上、これを避けるために、日常的に時々コネクターの部分を点検し接続を外して掃除をしほこりがたまらないように心がけることが必要であるといえる。しかし、コードをつないだままにしておけば必ず火災が発生するというわけではなく、むしろそれほど多くないことは、通常の生活を営んでいる大多数の者が経験上知っているところである。そのような事情からして、滅多にない事態に備えて右のような注意を怠らないようにするというのはいささか煩瑣ではあるけれども、要求されるのはそれほど高度な作業ではなく、右にみた程度の単純なものにとどまるのであるから、トラッキング現象を原因として火災が発生した場合に、長期間コードをつないだまま一度も掃除をしたことがないというような事実があると、火災発生予防のための注意義務を怠ったとして過失があるとされてもやむを得ない場合があり得ると考えられる。
しかし、本件火災が発生した当時は、さきにみたようにトラッキング現象による火災発生の危険ということは一般に良く知られた事象であったとはいえないから、このような注意義務を要求されることはないというべきであり、右のような事実関係の下で過失があったとするのは相当でない。まして重大な過失があったとすることはできない。
したがって、被控訴人今村には失火責任法上の責任はないことになる。
(二) 控訴人は、本件建物の施設と被控訴人今村や控訴人ら賃借人の占有状況からみて失火責任法の適用はなく、通常の不法行為の要件としての過失で足りると主張するが、同法の適用範囲につきそのような限定的解釈を採るべき根拠があるとは考えられない。しかも右にみたように被控訴人今村に過失があるということはできない。
(三) 以上のとおりであるから、被控訴人今村には失火責任法上の重過失はなく、民法七〇九条に基づく不法行為責任もないというべきである。
2 被控訴人伊藤の責任
(一) 共同不法行為責任
右にみたとおり被控訴人今村には失火責任法、民法七〇九条のいずれの責任もないから、被控訴人伊藤が共同不法行為責任を負うとすべき前提を欠く。
なお、前記の事実関係の下では、被控訴人伊藤に被控訴人今村方で発生した本件火災について賃貸建物の管理上過失があったということはできないから、被控訴人今村と共同で不法行為責任を負うとすべき根拠もない。
(二) 民法七一七条の責任
控訴人は、本件火災は土地の工作物の設置管理の瑕疵によるものであると主張する。
民法七一七条の解釈上、土地の工作物である建物そのものの設置管理の瑕疵だけでなく、建物内の電気配線、ガス水道配管等の設置管理の瑕疵を原因として第三者に損害を与えた場合にも、管理者が民法七一七条に基づき損害賠償の責めを負うべきこととされる場合はあり得る。そして、その場合過失は要求されないことになる。しかし、本件の出火原因は、建物所有者が設置しあるいは建物所有者の管理下にある電気配線設備そのものにあったのではなく、前記のように建物内で賃借人が扇風機を利用するため既設の電気配線設備に接続した延長コードの使用の仕方にあったとみられるのであるから、電気配線設備そのものの設置管理とは関係がないというべきである。したがって、右主張は採用することができない。
(三) 債務不履行責任
既にみたように本件建物の賃借人で火災の出火元とみられる被控訴人今村に過失があったと認めることはできないところ、本件のような火災については、建物の賃貸人としての被控訴人伊藤にそれ以上の注意義務が課せられるとすべき根拠は考えられないから、同様の賃借人である控訴人に対し、被控訴人伊藤が賃貸借契約に基づく貸主としての債務不履行責任を負うべきであるとすることはできない。
また本件建物の一階部分の各賃借人の使用形態については、証拠上、賃借部分が壁、仕切等によって画然と区分されたものでなかったとの状況がうかがえるものの、基本的には占有すべき部分がほぼ固定していたと認められるのであって、それが入れ替わったり、大きな変動を生ずるというような事情があったとまで認めるに足りる証拠はない。そして、本件全証拠によっても、被控訴人伊藤と各賃借人との間に控訴人主張のような黙示の合意が存在したとか、被控訴人伊藤が賃貸人の立場で賃借人らに対し他の賃借人の使用状況に関し安全に使用させるべき固有の義務を負っていたとみるべき事実関係を認めることはできない。
この点に関する控訴人の主張は採用することができない。
四 以上のとおりであるから、本件火災の発生につき被控訴人らに責任があるとして損害賠償を求める控訴人の請求は理由がなく、これを棄却した原判決は相当である。
よって、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して主文のとおり判決する。
(平成九年一二月八日口頭弁論終結)
(裁判長裁判官 新村正人)
裁判官加藤英継、同岡久幸治は転補のため署名押印することができない。
(裁判長裁判官 新村正人)